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慶長19年(1614年)11月15日

家康は二条城を発して大坂城攻めの途についた。そして20万人からなる大軍で大坂城を完全包囲させたが力攻めはせず、大坂城外にある砦などを攻めるという局地戦を行うにとどめた。徳川軍は木津川口の戦い・今福の戦い・鴫野の戦い・博労淵の戦いなどの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは、真田信繁(幸村)の前に大敗を喫した。とはいえ戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始動した。午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝鬨をあげさせ、さらに午後10時、午前2時、午前6時に大砲(石火矢・大筒)を放たせて城兵、特に戦慣れしていない淀殿らを脅そうとした。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦することを申し出て、家康もそれを了承した。

和議の条件は、大坂城の外堀の埋め立てと二の丸、三の丸の破壊であったが、家康は本多正純に命じて条件になかった内堀までも埋め立てさせ、慶長20年(1615年)1月中旬までに、大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。

和睦の条件になかった内堀まで埋め立てられたため、豊臣氏はこれを掘り返そうとした。ところが家康は、それを「豊臣氏が戦準備を進めている」という大義名分にし、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求。更に徳川義直の婚儀のためと称して上洛するのに合わせ、またも近畿方面に大軍を送り込み、豊臣氏に要求が拒否されるや侵攻を開始した。
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これに対して豊臣氏は、大坂城からの出撃策をとったが兵力で圧倒的に不利であり、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相ら勇将を相次いで失ってしまう。徳川軍は大軍ゆえの油断や連携の拙さ、真田信繁や毛利勝永らの奮闘もあって、一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自決を覚悟するほどの危機にも見舞われたが、やがて態勢を立て直した徳川軍により信繁・勝永らも戦死し、遂に大坂城は落城した。5月8日、豊臣秀頼と淀殿、そしてその側近らは自害し、ここに豊臣氏は滅亡した。

「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあり、山岡荘八の著書「徳川家康」ではこの説をとっている。しかしこれは、主筋であった豊臣氏を滅ぼしたことへの非難を避けるための後世の創作であるという説もある[要出典]。

その後大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建されて、秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟が閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮にも信長や秀吉が祀られるようになっている。

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2009年05月29日 08:47に投稿されたエントリーのページです。

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